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地方から国を、社会を変えていく。それが実現できる会社だと思う。

株式会社ジーシーシー
代表取締役社長 町田 敦

更新日:2023年5月31日

1984年 群馬県立前橋高等学校卒業。
1988年 東北大学 法学部法律学科卒業。
1988年 株式会社リクルート入社 情報通信ネットワーク事業部を経て、広告事業部に配属。
1992年 株式会社群馬電子計算センター(現:株式会社ジーシーシー)入社。
2009年 取締役就任、2015年 常務取締役就任、2016年 代表取締役専務就任。
2021年 代表取締役社長就任。
※所属や役職、記事内の内容は取材時点のものです。

コンピュータ時代の到来を感じ、地元へ戻ってIT企業へ。

ジーシーシーは地方自治体のソリューションパートナーとして、公共に特化したシステムを提供しています。もともとは、1965年に北関東初の情報処理専門企業として誕生した会社で、私自身は経験者採用で入社しました。新卒での就職はリクルートへ入社。私が就活していた頃はバブル期真っ只中。どこでも行けば内定がもらえるような時代で、就職先は電力会社に決めていたのですが、4年生の夏にリクルートからアプローチされて、リクルーターから「町田くんはそこで納まるかなあ」などと言われるうちに、リクルートに興味が移り入社を決めました。

最初は新規事業の情報通信ネットワーク事業部に配属されましたが、2年が経過した頃、事情により新規事業が終了することになりました。次に広告事業部に異動したのですが、そこが自分にとってはあまり面白く感じられず、4年で退職して、群馬に戻ることになります。

情報通信ネットワーク事業部にいたときは、リクルートに入って良かったと思っていましたね。新規事業だったので社員にも割と裁量があって、自分でやってみたいことや、こうやったらお客さまに刺さる提案になるんじゃないかとか、みんなでわいわい議論しながら進めていました。新規事業なので上司にも成功事例がありませんから、何でも「よし、やってみろ」という雰囲気でした。

一方、広告事業部は創業以来の部署なので、成功事例がたくさんあるわけです。実際に成功した人が上司としているので、「よし、やってみろ」とは反対の雰囲気でした。その感じが私には合っていなかったのと、さらなる自分の成長を求めて退職を決意しました。

その頃、これからはコンピュータの時代だというのは理解していました。当時のインターフェースなどは脆弱でしたし、法律も厳しかったのですが、そこが変わってきたらコンピュータと通信の親和性は、ぐっと上がるのではないかと感じていました。リクルート時代の情報通信ネットワーク事業部で一緒だったメンバーも、多くが大手IT企業へ転職していって、そこから時代を作っていきましたね。私は地元に帰って勉強し、資格を取って経験を積んでからまた東京に戻ろうと思って、群馬のIT系の会社ということでジーシーシーに入りました。

Windowsの登場でガラリと変わった環境に可能性を感じた。

ジーシーシーにはSEになろうと思って入社しました。当時はホストコンピュータの時代が終わりかけで、オープン系システムに変わってくる時代でした。

当社は群馬電子計算センターという名前でできた会社ですが、そもそもはIBM社が席巻していたコンピュータ業界で国産の事業も育てようということで、当時の通産省の取り組みとして各県にさまざまなメーカーのホストコンピュータが1個ずつ置かれたことがきっかけです。群馬県では日立製のホストコンピュータが当社に置かれました。

当社は当時から優秀な会社で、「質の良いソフトウエアを作る」という評価を得ていて、日立社からも重宝がられていたのですが、私としては「そんなに評価が高いなら、もっとあちこちに売ればいいのに」と思っていました。ところが、それができない。

時代が進んで人口が増え、自動車も増え、土地を持つ人も増えた。そうすると税金の計算が大変になってくるので、経済力のある市は自力でホストコンピュータを導入し始めました。

しかし、それだとどこに日立製のホストコンピュータが置かれているのかが分からないため、当社のソフトを売ろうにも売れないわけです。それはつまらないなと感じていました。

ところが、時代が変わり始めて、パソコンというものが玩具ではなく事務系でも使えるのではないか、という流れになってきて、Windows95が出てマルチタスクなどができるようになった。そこからガラッと変わりました。どのメーカーのパソコンでも、Windowsが搭載されていればどのソフトでも動く時代になって、これは当社もいけるんじゃないかと思ったんですね。

当時、私の上司だった常務に「Windowsの上でソフトを作ったらどこにでも売れるので作ってみませんか」という話をしたら、「よし、やろう」ということになりました。作ったシステムを雑誌に載せたら反応があり、富山で自治体の仕事を委託されている会社に採用してもらい何十本も売れました。

Windowsの良いソフトを作れば売れるという手ごたえを得て、そこからこの仕事がすごく面白くなりました。当社は全国の計算センターと比べると、動き出しが早かった。ホストコンピュータの方が儲かりますから、他はまだ動いていない状態でした。今振り返ると、やはり常務の決断がすごかったと思います。

会社の知名度を一気に高めた公営住宅管理システム。

オープン系の時代になって、いよいよ他のベンダーもWindowsのソフトを作って競争が激しくなっていくのですが、当社の一番の転機になったのは公営住宅の管理システムです。以前の公営住宅は家賃が3段階くらいで固定されていたのですが、財政的に厳しくなってきて、1996年に所得に応じて家賃を決めるという応能・応益負担にするよう法律が変わることになりました。

建設省が全国統一でシステムを作るという話になり、各自治体にシステムを提供していたベンダーはみんな開発を止めたんです。ところが当社の場合は、3つあった町村のお客さまから「ジーシーシーのソフトが気に入っているから作ってほしい」と言われて、継続して開発していました。

一方で、全国版のシステムが上手くいかなくて、全国的には混乱が起きてしまったんですね。そして「あそこの自治体は上手くいっているらしい」と、我々のところに問い合わせがくるようになった。それをきっかけに大手通信企業と一緒に営業をしたり、日本住宅協会から声をかけてもらったりして、社名と製品が売れていきました。

迷ったら原点に立ち返ってジャッジするという経営者の姿を学んだ。

1999年頃から始まった「平成の市町村大合併」は大きな経営リスクで、確実に売り上げが下がるという状況でした。当時、私は営業企画部長だったのですが、大手メーカーから住民基本台帳などの大きなシステムをコラボレーションしませんかという提案があったんです。

イチから自社開発するには費用もかかるし、メーカーと組むことが生き残る道だと思って、当時取締役を務めていた前社長の松下に提案しにいきました。

そうしたら、それは絶対にダメだと言われました。自分たちで作らなかったらジーシーシーじゃない、それをやっているからジーシーシーなんだ、というわけです。

私が準備していった企画書の数字なんてまったく見ないで、とにかく自社開発しかないと。自分たちの力がどれくらいなのかを試しもしないで、もう止めましたというのはダメだ、東京でも埼玉でも一度出てみて挑戦してみたらどうか、と言うのです。

話を聞くうちに、それもひとつの理屈だなと思って、私も受け入れました。当時で10億円以上かけて、初めて共通データベースというコンセプトで作った画期的なシステムでした。

住民基本台帳、税金、福祉などそれぞれの台帳管理だったものを横に繋げた『e-SUITE』という商品です。これが見事にヒットし、埼玉や東京でも驚くほど売れました。当社に東京のお客さまが多いのは、このシステムがきっかけとなり現在もお取引が続いているからです。

松下の判断は、あれが経営者の迫力なのだと思います。経営者に「我々の存在意義はこれだ」というものがあって、迷ったらその原点に返ってジャッジすることが大切だと思うし、本当に勉強になりました。現場のSEたちは、自分たちはもっと良いものが作れる、と思っていたんです。

私も現場から作りたいという声は聞いていたけれど、プロジェクトを進めるなかで、「さすがに10億円はかけられないよな」「作って本当に動くのかな」といった心配もありました。だから私は営業企画部として会社をどう生き残らせるかというミッションを果たすためにそういう判断をした。

各々が自分の持ち場で、全力で発言をして、とてもよかったと思います。決定したとき、松下がプロジェクトメンバーに「数値的には厳しいかもしれないけれど、勝負をかけてみよう」という話をしてくれて、SEたちも気合が入りました。「自分たちは作れると思っていたんでやります」という感じでしたね。

県内に大きなライバル会社がいて、SEたちもすごく鍛えられていて、力のある人が揃っていた。それも間違いないです。

管理職は教える側に回ったら負け。常に学ぶ側でいなければ。

これまではお客さまの「あったらいいな」の思いに応える形で、自分たちが作りたいものを作ってきましたが、これからはちょっと変えていかなければ駄目だと思っています。公共系のシステムも数年前まではインターネットとは繋げてはいけないというのが主流でしたが、インターネットとの親和性が出てきて、デバイスもPCからスマホの時代になってきています。その領域に当社が急に出ていって戦えるのか、ということがひとつの理由です。

そしてもっとも以前と違ってきているのは、たくさんのお客さま、仕事を抱えているということです。以前はそれほど大きな会社ではなく、時間に余裕があるSEもいて、そういうメンバーを呼んで新しいものを試したりしていた。いまは一人ひとりが目いっぱい仕事をしているので、あれも作れ、これも作れとは言えない。そうすると、他のところと一緒にやらなければいけませんし、我々の頭も変えていかなければなりません。

ですから、管理職には常に「教える側に回ったら負けだと思え。学ぶ側でいなければダメだ」という話をしています。我々が持っているソリューションは、これからの時代にはちょっと違うんだ、というくらいの認識でいないといけない。まず、社長は絶対にそうなんです。社長は常に学ぶ側でないといけない。だから社員たちには「我々の頭は固くなっているから、質問をしてください」と話しています。

入社式の挨拶でも「とにかく皆さんに期待しているのは、質問をしてほしいということです。皆さんが考えているソリューションの方がきっと正しいから、どんどんそれを発信してください」と伝えています。一方、管理職研修では「君たちはいつもニコニコしていなさい。むすっとしていたら部下たちは話しかけてこないから」と話していますね。

社会に関心がある人にとっては面白いことができる会社だと思う。

「地方から国を変えていこう、社会を変えていこう」とよく聞くことがあると思いますが、ジーシーシーに入ると結構それができるかもしれません。我々は地方にいて、行政の仕組みなどを変えていくことができる。

コロナワクチン接種のときも、国の方針に対応するべく接種券の配布をする自治体は大混乱でした。そういった状況のとき、いかに効率的に、合理的な優先順位を踏まえて、ミスなく発送できるようにするか、というのが当社の仕事です。

自治体が困っている、国が困っていることについて、一つひとつ丁寧にソリューションを提供するのが当社のやるべきことです。

2020年のコロナ禍の経験を踏まえて、例えば支援物資を迅速かつ誤りなく配送するために、地図情報と福祉の情報とをマッチングしましょう、といったことを提供できるのは、当社ならではだと思いますね。

社会に関心がある人にとっては面白いと思いますし、これからもっと面白くなると思います。最近は、国が骨子を決めてその後は自治体で進めてください、という流れになってきて、工夫のしがいがあるようになってきています。

当社は行政システムの経験を60年重ねてきている分、法律や条例の範囲内でこういうことができるんじゃないですかとか、今ならChatGPTをどう使っていくかということも含めて、見識あるソリューションを提供できると思います。

そこには、倫理観などをしっかり持っている先輩たちが知恵を出すことができます。若い人たちは、「あの技術であんなことができるんじゃないか」「こんなことができるんじゃないか」ということをどんどん出してもらいたいし、そういう人に来てほしいですね。

さらに言えば、知恵を取り入れながら新しいところへ行こうという「したたかさ」がある人。「したたか」という言葉は、日本語としてはあまりいい表現ではないのかもしれませんが、自分がやりたいこと、こうあるべきだということに向けて、周りの人の力も使いながらやっていくということですよね。

私は社員たちのそういうやり方を手伝っているだけ。したたかにやっていくことはいいことだし、何でも質問しなさい、ということを言い続けることが自分の役目だと思っています。

編集後記

コンサルタント
松浦 光洋

町田社長ご自身が東京からUターンを経験されたからこそ、これから「群馬に戻りたい」と考える方々にご覧いただきたい内容です。

お話を伺い、地方公共団体に特化した自社システム開発は、新型コロナウイルス流行などの社会的な問題や、さまざまな国の方針変更に対応を迫られる地方自治体をダイレクトに支えている素晴らしい事業だと感じました。

そして、同社がこれまで顧客のために全力でサービスを提供してきたからこそ、発展進化を続けているのだと思いました。「したたかさ」をもった人材が集い、さらなる躍進を続ける同社の成長が楽しみです。

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